昔、大陸の西方においていくつもの国々が集まり強大なイール連合が生まれた頃、何度も統一・分裂を繰り返していた大陸東方において
もまた新たな帝国が成立しつつあった。 延帝国、初代開祖帝および2代目拡土帝の2人の皇帝によって領土は拡大され一時は大陸の東方4分の1を統合するまでになった。 自らを凡庸と称する3代目になり、方針が拡大から領土の整備・保持に変更されるようになると東西南北の中心四都市にその地方を守護する拠点が置かれ、それ ぞれ東安、西安、南安、北安と命名された。 また中央にあって四方を大きく守護をしていた都も少数民族による反抗、侵略の多い西部、及び北部の動きに迅速に対応できるよう帝国中央の西より長河のそば に移され京と命名された。 国内の基盤がいまだ脆弱であることを見抜きあえて派手な遠征ではなく内政に重点を置いたこの皇帝は本人の認識に反して非凡帝と称されることになる。 だが、失敗など無いように見えた非凡帝唯一の失敗として語られることに子育てがある。 彼の息子である4代目皇帝、愚行帝。 3代目時代の無攻主義により弱体化された軍隊の資金面を考えぬ急激なる強化、それらの急造兵による四度に及ぶ大遠征、何千とはべらせた後宮の女達との豪 遊。 軍隊の強化とはすなわち人員の補充、働き手となる男手は徴収されそれでも税金は重くなるばかり。 耐えかねた元農民を主体とする群盗が跋扈し、それがさらに人民を圧迫した。 遠征に加わらず日夜遊びほうける皇帝の噂は兵士達に良い影響を与えるはずはなく、さらに過酷な遠征によって体調的にも無理の来ていた兵士達の士気はどん底 であり殆ど成果も出せないままに遠征は隣国諸国との関係を悪化させるだけのものとなった。 更にこの遠征により一気に弱体化した帝国軍は南西の勢力西雑によって逆に侵略を受けることになる。 帝国の分断を目指す西雑軍を南西辺境軍と帝国京軍だけでは防ぎきれず、帝国西安軍による助けが来るまでに西安の守護する西方と帝国主用部との間にはほんの わずかな山地帯を残すのみとなっていた。 元々強兵とは言えない西雑軍を名将燕威率いる西安軍は補給線を絶つなどの作戦により大打撃を与え西安と京とを結ぶ西道まで押し返したがそこで急遽西雑と休 戦協定を結ぶと一部の兵のみを残して西安へと戻り守備に当たった。 皇帝暗殺の報。 2代目拡土帝の末の子にして3代目非凡帝の弟忠明による易姓革命であった。 5代目皇帝となった忠明は己の革命の正当性を謳うため4代目を愚行帝と命名。 だが結局彼は革命帝と呼ばれながらも先帝の愚行による負の遺産、莫大な借金、強まった地方代の発言権、政治の腐敗などに皇帝時代の大半を捧げざるを得なく なる。 非凡帝が長生きし、かつ皇帝職を死ぬまで退かなかったため次の6代目皇帝は2年しか職につけなかったが、彼は皇帝家直属の探検隊を作り新しい海路及び陸路 の発見に努めた。 この試みは彼の死後7代目皇帝の代に実り、帝国に莫大な利益をもたらした。 探検隊の一つの船隊は西方への航路を求めて旅立ったが、間に陸路を挟むことにより西方連合からの定期便が出ているほど連合近くの町まで行く海路を発見し た。 これは今までの大陸中央を陸路で行っていた西方連合との交易を根底から変えてしまいかねない発見であり、船長は栄誉を称えられ貴族の末端に加えられ、また 皇帝と共にという条件付ながらも後宮への出入りを許された。 そこで聞かせる旅の話より皇后のお気に入りとなりひいてはその父親たる宰相を兼任する尚書令一派に加えられ、船長には貴族として新たな優雅な生活が待って いると思われた。 ところが同じく皇帝に嫁いでいた中書令の娘が王子を産んだことにより状況は一変する。 中書令一派は一気に力をつけ尚書令家は徐々に追いやられていった。 結局尚書令派に見切りをつけた船長はまた海へと戻っていくことになる。 それから25年、皇帝は代わり中書令は枢密使となり、また宰相を尚書令と共に分任することになる。 この話の主人公は船長の息子である。 |