夕方のキャンパス、工学部機械工学科の建物の中。
予想通り女っ気は少ない、とはいえ一人も居ないわけではない。 そう、今近くの部屋の前でドアを叩いている美女だってここの学生ではなさそうなことを除けば立派に女だろう。 やがて返事すら無いことに気づいた彼女が少し困惑した顔をしていると反対側のドアが開き、いかにも作業中といった感じの青年が一人顔を出す。 「真紀さん、こんにちは」 「朋(トモ)君おっはよー。 こっちの方に居たのね。 今日は後どのくらいで帰れるの?」 おはよう?部屋の中の時計を覗く。 間違いない、今は夕方だ。 バイト先の癖でも出たのだろう。 「あと一時間と二十四分です」 かなり正確な予告をする。 「それじゃ夕ご飯の材料買ってくるね。 慧ちゃんは?」 ここで朋と呼ばれた人物の表情が相手も気づかない程度に、だが確実に翳る。 「一昨日から研究に行くとか言って一人で新潟の奥の方まで。 あの調子じゃ今週一杯は帰らないつもりだと思いますよ」 「そっか〜、残念。 でも、やりがいのあるものを持ってるって良いわよね。 それじゃ、また後でね」 来た時のように元気にそう言うとドアを閉める。 途端、朋の後ろからため息が聞こえてくる。 「ハー、やっと行ったか。 あの女が近くに居るだけで狂気を撒かれて俺も変になる気がするぜ」 「船木さんが変なのは元か……」 「そんな冗談はいらない」 ごまかそうとした朋の台詞を船木という男は一蹴する。 朋の脇で何か教えていた青年が口を挟む。 「船木さん言いすぎなんだよな。 真紀さん綺麗だし。 慧さんと彼女の二人は唯一うちの研究室の華なんだからもっと大事にしないと」 そう言われて船木は反論する。 「どちらもうちの研究室の学生ではない。 それに聞くがな。 あの部屋を物置にしたのはいつだ? 原嶋ちゃんが今週一杯は帰ってこないのだって昨日も言っただろ。 本気で何も覚えてないんだぞ彼女は」 それに朋が答える。 「彼女だって覚えてますよ。 起きてからその日一日のことは。 それに、あんなことがあった後じゃ、誰だって少し位。 …… あの二人にはお世話になりましたから。 せめて彼女が落ち着くまでくらいは」 用意された言葉、相手を納得させようという熱意は感じない。 このやりあいはきっともう何度と無く繰り返されているのだろう。 早く終わらせたいという気配の見える朋。 そんな朋とは対照的に船木はもどかし気に吐き捨てるかのように返す。 「ハッ。 落ち着く? それは一年後か?二年後か? ひょっとしたら一生あのままかもな。 それにな、そもそも恩なんてのは返せる時に返しゃ良いんだよ。 今のお前はどうなんだ? 工学部三年の秋。 うちの研究室に入りたてで研究室のお荷物にならないようものを覚えていくだけでも大変な日々。 違う大学の年上の彼女。 大事にしてやらねえとな。 お前を慕ってくれてるサークルの部員達。 後輩のみならず皆から信頼されて人望もあったよな。 お前はな、周りから必要とされて期待もされているんだよ。 そんな奴が平日も休日も毎日、あんな女の相手で無為に過ごしてて良いと思ってるのか? 新学期が始まっても後輩と飲みにも行けない先輩の気持ちがわかるか? 自分を一番に優先してもらえない原嶋ちゃんの気持ちは? お前に依存してたサークルの友人や後輩達は? 彼女は確かに可哀想かもしれない。 だが、お前がここまで犠牲を払ってやる必要が本当にあるのか?」 「船木さんこそもう何日同じこと言い続けるんですか? このことを話すのは止めましょうよ。 真紀さんにとっていつもと違うことは恐怖なんです。 いつもというのが僕との食事ならそれは守らないと。 船木さんも実際に彼女のあの様子は見たことがあるでしょう」 「ああ、見たともさ。 お前の苦労の甲斐も無く、結局彼女は毎日あれをやるわけだ。 毎日目の前でやられる奴に対しては哀れみの情を禁じえないね。 けれどもうこれ以上言うのは止めるとしよう。 急ぎな、帰る予定の時間まではあと一時間十八分だぞ」 おやおや、事情は良くわからないがどうやらあの美女は彼らの彼女ではないようだな。 それどころか疎むべき存在か。 おもしろい、少し付き合ってみるとしよう。 しばらく待つと彼女、真紀といったかな、が帰ってきて朋と共に部屋を出て行こうとした。 朋は少し話すことがあるからといって、真紀だけ先に行かせると部屋の方に向かって話す。 「昔は船木さんだって一緒に話したり飲んだりしたこともあったでしょう。 そんな相手のことをそこまで言うなんて。 自分が嫌になりませんか。 僕のためを思ってくれてるのはわかりますけれど、もう決めたことですから。 ……言い過ぎですね、すいません。 それでは、失礼します」 そう言うと真紀を追いかけて朋は廊下を走っていった。 「自分が嫌にならねえかだと? くそっ、誰のためにここまで言ってやってると思ってるんだ! 倉橋、お前が彼女を連れて行くのは見逃そう。 だから、お願いだから朋だけはこっちに返してくれ」 朋の先輩船木の心の叫びを聞いてから朋と真紀の所へ行くと彼等はのんきに今夜の夕食の話をしていた。 「それで、今夜のおかずは何ですか? 買い物袋からはみ出している頭を見ただけで何かは想像がつきますが」 彼女では無さそうだが真紀が朋に食事を作るのだろうか。 「あのね、なんと今日は秋刀魚があったのだよ君。 夏だ夏だと思ってたらいつのまにか秋の足音は近づいて来てるもんだねえ」 そう言うと感慨深げに、だが少しわざとらしくため息をつく。 この娘は、何を言っているのやら? 今は秋も深まった10月の終わりだ。 それをまあ。 良く見れば格好も秋のものとは思えない。 よく寒くないで居られるものだ。 「そうなんですか。 でも、そのくらい別に自分で焼いてもさほど味は変らないと思いますが」 「あま〜い。 朋君は私と直樹の料理の腕をなめすぎなのだ。 朋君のとこでご飯食べるようになる前に直樹と二人で焼いた秋刀魚。 墨すら残らなかったわ!」 作るのは朋でどうやら真紀は材料を買っただけらしい。 「それは…… ある意味お二人の実力を過小評価していたようですね」 真紀は無意味に胸を張って威張っている。 「それほどの実力をお持ちなら、立派に手品師としてやっていけます。 どうです、今から大学を辞めて頑張ってみては? 『消える秋刀魚』 タネも仕掛けもありませんから、これは話題を呼びますよ」 「朋君。 人がせっかく誉めてあげてる時は素直に喜ぶの! まったくもう、会ったばかりの頃はあんなに素直で可愛かったのに」 そして、小さく付け足す。 「ちょっと素直すぎたけど……」 朋はそれをかわして話を続ける。 「別に僕が誉められてるわけではなかったと思いますけどね」 「なあに?」 「いえ、何でも」 「そう、それなら早く行くわよ。 他に肉じゃが用の材料も買っといたから」 「あ、それなら帰りにちょっとスーパー寄って行きますね。 見た感じインゲン豆が入ってなさそうでしたので」 「インゲン入れるんだ?」 「はい、『余計なもの入れるな、味がにごる』って人もいますが僕は割と好きですよ。 やっぱりたくさん種類があったほうが美味しそうじゃないですか」 「それじゃ朋君は帰って準備しといて。 インゲンは私が買ってくるから」 「わかりました。 それではお願いします」 「そんじゃ、これ持ってっといて」 そう言うと真紀は食材の入ったバッグを渡すと目の前のスーパーに向かって走っていった。 どちらにつこうか迷ったが朋の後についていく。 朋はそれを少しの間眺めてから、かなり古い感じのそれでも鉄筋コンクリート製のしっかりしたアパートの中に入っていくと二階に上りドアを開ける。 入り口からすぐに台所となっており、その奥に六畳よりほんの少しだけ広めな部屋がある。 畳部屋、四人となるとかなりきつそうだ。 朋は真紀から渡されたバッグから食材を出すと手馴れた様子である物は冷蔵庫に、ある物はテーブルの上へ、と分けていく。 米を研いでジャーのスイッチをつける。 そして野菜を切り分けていった。 鮮やかな手つきを見る限りそこそこ料理の経験はあるようだ。 真紀がご飯を食べに彼の家まで行くというのも分からなくは無い。 朋には彼女が別に居るようなので不自然と言えば不自然だが。 しばらくすると真紀も帰ってきた。 「おじゃましま〜す。 朋君、はいインゲン」 テーブルの上に買ってきたインゲンを置くとそのまま奥の部屋に入り音楽をつける。 流れてくる耳慣れない言葉の耳慣れたような不思議な音楽。 気付けば何のことは無い、外国語の歌。 多分ポップスだろう。 「真紀さん、また歌手ですか?」 「林蓮と言いなさい。 彼女は最高のミュージシャンよ。 慧も凄いけれどあれはバックミュージックとして聴けるモンじゃないからね」 慧、朋の彼女だったか。 彼女は音楽をやっているのだろうか。 「慧のは僕もそう思いますが…… 外国語で歌われても僕には意味がさっぱりわからないんだけどね」 「このばか者が。 料理をするのに意味のわかる歌など聴いては雑念が入るわあ!」 「はいはい」 どうでも良さそうに頷くと鍋に火をつけ朋は部屋の中へと入ってきた。 しばらく二人の会話、というか真紀が一人で話してるだけなのだが、が続く。 朋は鍋の様子を見るために立ったままで聞いている。 ご飯が炊けると朋は三人前の秋刀魚を焼き始めた。 そしてキャベツやキュウリを取り出しサラダの準備を始める 三人前、朋や真紀が二人分も食べるとは思われないし他に誰か来るのだろうか。 やがてそれを見ていた真紀も立ち上がって横に行くと、新しい鍋に水を入れて沸かし始める。 味噌汁でも作るのだろう。 夕飯の準備が整った。 三人分のご飯、お味噌汁、秋刀魚、サラダ、お箸、取り皿。 そして漬物と二人には少し多すぎる肉じゃが。 結局真紀は水を入れお湯を沸かしただけで味噌汁は朋が作った。 二人はそれらを当然のように準備し終えるとまず朋が座り、真紀は朋の前に一缶そしてその横の席にも一缶ビールを置くと朋の向かいに座った。 「朋君、今日もありがとうね。 頂きま〜す」 「頂きます」 二人はそう言うとご飯を食べ始めた。 残り一人分、その主はいまだ現れないが彼等がそれを気にしている様子は無い。 いや、そもそも始めから彼らが誰かを待っている様子などなかった。 今、気が付いた。 真紀は主に朋と言うよりはその誰も居ない席に向かって笑いかけ、話し掛けていた。 返事が無くても朋が気のなさそうな返事をしても真紀は全く気にしていない。 食後も片付け等をしながら二人が楽しく雑談、というかほとんど真紀が一人で話してるだけなのだが、をしているうちに九時になった。 そして時計の短針が七分を少し回った頃、真紀の表情が急変した。 電話をおびえたように見つめ、震える口で何かを叫ぶ。 「いや、嫌よ。 朋君、その電話取らないで!」 もちろん電話など鳴ってはいない。 それでも、そのおびえようを見ていると逆にこちらが聞こえていないだけで電話は確かに鳴っているのかとすら思ってしまう。 「いやっ。 直樹。 なおきっ、いやーっ!」 そして彼女は気を失った。 残された朋は一瞬だけ悲しそうに真紀を見つめると、慣れた手つきで彼女を背負い部屋を出て階段を下りる。 そして彼が一階のあるドアの前まで来るとベルを鳴らす前にドアが開く。 「こんばんは、飯島君。 本当にいつもありがとうね」 中から人の良さそうなおばさんが出てくる。 「いえ、お世話になった後輩として、友人として当然のことです。 それに今日も真紀さんを悲しませてしまいました」 「一瞬の事よ。 目を覚ませばまた全てを忘れてるわ。 それにしても飯島君。 いつもこんなことしていてあなたこそ本当に大丈夫なの? あなたにはあなたの生活があるのに真紀のせいで無理させてるんじゃないのかと思うと」 「おばさんがわざわざ僕と同じアパートまで引っ越してきたのに比べればはるかにましですよ」 話からすると真紀の母親のようだが……? 40を過ぎたくらいにしか見えないが真紀の母親だとしたら実際はそれどころではない。 「娘がこんなになっちゃったんじゃしょうがないわ。 それに、子供の世話ってのはいつになっても楽しいものよ。 こんなに近くに居るのに私自身は真紀が起きているうちに会えないのは寂しいものだけれどね。 けど、それも毎日を同じ一日にするため。 私が居るわけにいかないんじゃしょうがないわ。 それじゃ、悪いけれど今日もまたお願いできるかしら?」 「はい」 そう言うと朋はまた真紀を担ぎ、先に立って歩き始めた真紀の母親の後をついていく。 向かう先には車があり、それに乗ってしばらくするとまた違う建物の前に止まった。 廊下から暖かい明かりの漏れ入り口には観葉植物もあり、朋のものよりずいぶんとおしゃれな感じのマンション。 OLやちょっとリッチな女子大生向けといったところか。 先程と同じように母親が先導し、朋はその後をついていく。 エレベーターを降りてドアを開け、真紀をベットに寝かせると二人はほぼ同時にため息をつく。 「真紀さん、おやすみなさい」 「お休み、私の真紀。 みんなは成長していくのに、また明日も同じ日を彷徨うのね。 周囲に迷惑をかけながら。 でも、今はお休み。 願わくば、実の親の私でもぬぐえない悲しみに向き合ってくれる日が来んことを。 呪われた日々に終わりが来んことを」 そして、二人は部屋を出る。 絶望的に続く同じ明日を思いながら。 |