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特別の求め


作:夢希

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 遙と二 人で酒を飲む。
考えたこともなかったが元々気のおけない相手。
俺の近況、麻理のこと、色々話した。
遙もこのままならおばあ様が大学に行かせてくれそうで、しかも帝都かも知れないと嬉しげに報告してくる。
彼女にとって大学へ行くのに必要なのは学力ではない。
それはもちろんのこととして他に本人の行く気と保護者の財力、そして何より保護者の許可。
遙のことを祖母が認めているということが何よりの朗報だった。
そして、麻理の話をしても遙が冷静そうなことも朗報だ。

むしろ歓迎ムードの遙に俺は安心して杯を重ねる。
気持ちの良い温泉、おいしい食事に、こうしてのんびりと語らいあう。
窓から見える舞い降りる雪は静けさを増幅させる。
なるほど、来る時には何もないのに呆れたが何も必要なかったのか。
例えこれが一泊ではなかったとしても語らう相手と本さえあれば他に何も要るまい。
スキーも気分転換が目的ならあれで十分なのかもしれない。
この温泉街が愛されて続いてきた理由の分かった気がした。
麻理とも来てみたくはあるが、友達ではなく恋人。
良し悪しはともかく、それは今の気持ちとはまた全然違ったものになるだろう。

 そして尽きぬ話題は昔話へと変わっていく。

大学に行けと父親に言われてからの俺の成績の急上昇。
実は3年になって高校に遙が入ってきたからなのだが……
おかげで俺の今いるいつき農大は農学系としてはちょっとしたものだ。
とはいえ、文系の遙にとって近場に適当な大学は無い。
水都や木都の方が近いといえば近いが、同じ一人暮らしなら帝都へという祖母の考えも分からなくは無い。

高校の1年から3年合同で行われる海の家臨海学校。
俺と遙の関係は当然なのか、同じ村出身者からの噂によるものか村から電車で15分のここでも誤解され続け……
臨海学校中ずっとあからさまな好奇の視線を感じていた。
当然俺たち二人の間には何も無かったのだが、仮に何かしようとしてもこれでは出来るはずも無かったろう。
まあ、既に聡明な可愛い1年として2,3年から注目されていた遙に俺という悪い虫がつかないよう見張ってたというのが本当の所で、彼らは俺たちに何も無 かったこと無事阻止したと祝ってたりするわけだが。

高校に入るまでの容赦なかった農作業。
人手が足りなくて学校が休みの土日も農作業で潰れる何ていうのはもう昔のこと。
進学組に分類された俺達は人での足らない時期以外はもう滅多にやらなくなっており、昔の楽しかったこととして懐かしそうに話している自分に気付いて二人で 大笑いした。
なんせ当時は仕事の話と言ったら愚痴以外はどこを探しても出てこない状態だったのだから。

『あのこと』のあった遙が中1だった頃を駆け抜けてそれは小学校へと移りさらに……

「ねえ、覚えてる?
私って昔はすごく暗かったのよ。」
知っている。
いじめられて、からかわれて、馬鹿にされて。
それでも笑っていられるやつじゃなかった。

それがいつの間にか明るくなり、更には誰からも好かれるようになって……

「それをいじめから守ってくれたのもこういう風に明るくなる方法を教えてくれたのも、
全部一也」

「そのことはすごく感謝してるの。
あの一言があったお陰で今の私が居る。
でもね、」
でもね、と区切る遙の表情がどこと無くおかしい。
お酒の入っている頭でも分かる。
が、例えそれに気付いても続く遙の言葉を止める術はない。
「『あの時のこと』、私はまだ許してないよ?
だから」
『あの時のこと』、それが何を意味するかは聞くまでもない。
「だから、最後に。
しよ」
言葉に、詰まった。
肯定も否定も出来ない。
ほんの数分前までくつろいでいたというのが信じられないくらいに身体が強張っている。
考えておくべきだったのだ。
有りえないという筈は無かった。
俺が男で遙は女であり、その二人で泊まりなのだから。
現にそのような提案がいま行われているのだから。

 ただでさえ遙の頼みは断れない。
その上『あのこと』を持ち出されたら断れるはずがない。
いや、ひょっとして俺はあのことがあったから遙の頼みは断れなかったのか。
そこまで最低のやつだったのか?

 そう、では、ないはずだ。

けど、『あのこと』がばれるのだけは絶対に止めなければ。
これを受ければばれない?ばらさない?
なら、受けなければ?
そも、今は麻理がいるのだ。
これがばれればただではすまない。
でもあれだって、ばれなかった。


打算ばかりを考えている自分に愕然とする。
と言って……

 何もいえないで居ると、「さらり」衣のずれる音。
音の原因は目の前、考えるまでもない。
目の前で起こっている事態に呆然とするが、遙のその暗い表情に声だけは無理をしているのか明るいままで。
「話を聞いてると麻理さんには勝てそうにないし。
先輩だろうがなんだろうが俺は俺の道って感じだった一也が慕ってるんだよ。
話し聞いてれば相手をどの位想ってるかくらい分かるよ。
きっと本当にお似合いなんだろうね。
だからさ、ばれたら困るって思ってるかもしれないけどね。
大丈夫だよ、私は口が堅いから。
『あの時のこと』だって少しもばれてないでしょ。
それに、今回は絶対に拒まない、から」
浴衣の下は何もつけていなかった。
ブラジャーもしていないということは少しずれれば見えていたというわけで。
それはつまり温泉に入る頃には決断していた行動というわけで。
女として誘っていた?
でも、やはり遙が遙なのは変わらないわけで。

 思考はぐるぐると同じ所を留まり続け、結論はノーの辺りを行ったりきたり。
裸を見たという喜びや衝動なんて戸惑いの前に全てかき消される。

「なん、で」
結局出たのはかすれた疑問の声。
「分かってるの、一也には彼女が出来た。
麻理さんが一番、それは良いの。
でも、私だって特別でしょ。
私にとって一也は特別。
だから一也にとっても私がまだ特別っていうの見せて欲しいな」
それが事実であり、確定しているかのように話し続ける遙。
「『あんなこと』をしたのに、
遙は俺のこと…… 好きなのか?」
「うん、好きだよ」
馬鹿みたいな確認に帰ってきたのは当然の答え。

 けど、その屈託のない答えに俺は逆に違和感を感じた。
余りにも単純で。
ただ、単純すぎた。

「それじゃ、おばあ様は?おばさんは?」

もっと馬鹿げた質問。
それでも聞かずにいられないのは、
好きは好きでも……

「うん、好き。
みんな大好き」
やはり彼女にとっては。
そこで俺の表情に気付いたのか遙は慌てたように付け加える。
「でもね、一也は特別なの。
そのはずなの……」

特別である確認のため、か。
俺は似たようなことを思い出していた。



 村に一つの中学、それは村一番の郷である神保に有 る。
そこには6つの教室があるが、クラスは3学年合わせて4つ しかなかった。
3年が二つで後は一つずつ。
そこが俺の消えない罪の地。

 中学三年、部活を引退していた俺の長い休みも過ぎて体育 祭を控えた夏の終わり。
台風の接近によって授業は午前で打ち切り、
遠 方からの通学者も近所の者も急いで帰り、学校に人はもうそんなに残っていない。
外では既に台風の接近を知らせる強い風雨が吹き荒れている。

そんな中、前の授業中に眠っていた俺は眠気 が取れずにホームルーム後もまた机に突っ伏していたのだ。
走れば家まで五分。
既に傘が無意味な次元に入っている以上、俺にとってはどんなにひどくなってもそう変わらない。
そして一眠りをして身を起こし、そろそろ帰ろうかと思った時だった。

 「先生に頼まれて植木鉢を校舎の中にしまってたらびっしょびしょになっちゃった」

俺の教室の前を通りかかった遙がそう言いながら嬉しそうに入ってきた。
遙が中学に入ってきた当初、三年になっ た俺は遙が親しげにくっついてくるのをうとましく思っていた。
本当に嫌だったわけではもちろんない。
ただ俺を見つけたらすぐ走り寄って来る遙と周囲の冷やかしが恥ずかしかった。
虐げられ、周囲を覗う性格を強いられた遙がそれに気付かないはずがない。
4月中、本当に即座に俺の望む『適度な』距離を保つようになった。
友人の一人として接し、先輩なのだから使うのは当然敬語。
遙の忍耐力はかなり高い、俺のほうが辞めてくれと叫びたくなるほどに完璧だった。

 だからこそ、この時の遙は嬉しそうだった。

周囲の目のないところで二人っきりになれたのだから。
濡れて透けた夏の制服、満開の笑み。
そんな状態でしがみ付いてきたのは彼女の失敗。
照れくさくて邪険にし、見ないふりをしてきて、その実俺は誰よりも遙を見続けてきた。
距離を保つことを強いておきながら、実際にそうされると今度は遙が自分から離れていくのかと不安になっていた。
いつも俺の後に着いてきて泣く度に慰めていた遙からもう居なくても大丈夫といわれているようで。

 遙が女であることなぞとうに意識していた。
 俺の身勝手な不安と苛立ちは限界だった。

 そして……

 俺に甘えられる楽しい時間は、地獄と化した。

 強引な口付けに驚きつつも照れていた遙も続く俺の動作に呆然とする。
予想もしていなかったであろう俺の振る舞い、逃れようともがく動作は男女の違いと年の差を実感させるだけで。
そして俺にとってもそれは地獄だった。
胸をもんでも何をしても本で得た知識と違って遙は喘ぎの一 つもせず、ただただ泣いて「やめて」の繰り返し。
必死に閉じた唇がこれ以上の口付けを拒む。
それでもそれらの行為を繰り返し続けた のは俺が遙にとって特別であるという証拠が欲しかったから。特別な関係になりたかったから。

 最後には受け入れてくれると勝手に信じていたのか……

 拒絶されているというその事実が余計に俺をムキに させて。
大声を出さず、そのぼろぼろの格好であがきはしてももう逃 げ出すそぶりは見せ ない。
今のこの状態自体が遙の優しさだとも気付かず。

 特別というラベルはもはや望むべくもなく、それでも今更止めることもできない。
何も変わらぬままに時間は過ぎ。

そしてその後の意識はない。

 見廻りの教師がやって来た頃には遙の制服はもう着ら れるものではなくなっていたようだ。
この集落出身であるためにこんな日の当直を任されたであ ろうその教師は、それ故にこそ遙と俺の家についても詳しく知っており、遙の必死の説得もあってか事 なかれ主義を発してか何も見なかったことにしてくれたのだろう。
推測ばかりだが、結局俺が意識を戻したのは少し汚れた制服 に着替えて椅子に座っている遙とその遙のものだったであろうぼろぼろの制服を教師が袋に詰めて 捨てにいくところだったのだから。
聞いてみればまだ伝聞系で言えるのかもしれないが、聞けるわけがない。

 どうでもいい説教と忠告の後、職員室から開放されて帰り 道に交わしたほんの一言ずつの会話。
それだけをはっ きり覚えている。

「俺、結局どこまで」
「……うん、大丈夫だったよ」
嘘をつけない遙のその痛々しいまでの否定がどうしようもな い事実を肯定していて。
罪の記憶すらあやふやな自分に俺は本気で腹を立てた。

 立てたはずだった。


 これがばれれば俺の人生はまったく違うものに変わってしまったはず。
それを知ってか遙はそれ以降も俺への態度を変えず、それまでの俺の態度も遙への罪悪感を悟られないのには都合が良かった。
結果、今まで誰にもばれなかった。
それ故に謝罪すらいまだに出来ずにいる。


 ハハ、変わらないな。
俺は中学三年の『あの時』。
遙の気持ちが知りたくてあんなことをしでかした。
中学に上がるまでの遙にとって唯一であった俺が、その当時は特別どころか普通にまで落ちていたように感じていた。
それが外面の態度であっただけでなく、自分が蒔いた種だったのにすら気付かずに。
そして『あの日』のこっぴどい拒絶。
突然あんなことをされたのだ、当然なのかもしれない。
だが、『あの時』の俺はその拒絶から得られた結論をそのままに受け取った。
それにあんなことをして嫌われないわけが無いという考えも加わって。
遙は俺のことを大切に思ってくれてはいても好きというわけではない、それがもはや俺にとって疑問の余地のないレベルになっていった。
そしてあんなことをした俺に恋愛をする資格など無いという思いが遙だけではなく他の誰にも興味をいだかせないまま大学にまで進ませたのだ。
麻理に会うまで……

 俺は『あの時のこと』を絶対に忘れないと思った。
忘れられるはずが無いと思った。
けれど、その事実だけは覚えていても実際に自分に辛いこととなると無理だった。
しまいには理由すら忘れてしまっていたくらいに。
そして、今度は遙が俺に特別であることを望んでいる。

あれだけ悩んでいたのに、結論はあっさり出た。
「遙、君のやりたいことは愛し合うって言うんだよ」
特別であるという確認。恋人同士なら、愛し合っているのなら構わない。

「俺は君のことが好きだった。
今でも家族みたいに大事に思うよ。
けど、今はただそれだけ」

俺たちがそれを行うのは現実からの逃避でしかない。
遙の望む特別すら俺は今後保てないのだろうから……

「家族愛」
遙が何か呟くのをあえて無視する。

「そして、遙も俺のことを特別に思ってくれているかもしれないけれど愛してはいない。
全てを平等に好きになるってのは俺を好きになるってのを元から内包しつつも矛盾した行為なんだから」

愛、そんな観念的で具体性の無い言葉、否定でも肯定でもしてしまえばいいのだ。
けど、「そんなこと」といったきり遙は次の言葉を継げずにいる。

決まりだ。

 今にも泣き出しそうな遙に俺は両手をひらひらさせて極めて明るい口調で告げた。
「これじゃそういう行為は虚しいと思わないか」

途端、遙の瞳に涙がにじむ。
「一也君が言ったのに……」

え?

「一也君の言った通りにしたのに!
何でそういうこと言うの?」
そして変だよ、おかしいよと泣き始める。
まるで駄々っ子だ。
遙が、あの遙が駄々をこねている。

「私ね、おばあ様に認められたんだよ。
おばあ様の全てを受け継げる人はもう私以外居ないんだって」
これは? 子供の頃の遙?
けれど話す内容は今のもの。
思えばいつからだったろうか。
遙が今の明るい遙になったのは。
「私、本家を継ぐんだよ。
汀さんはもう和泉の人間になったからって。
他の子達は論外なんだって。
空っぽの権威を持った厄介者の当主の座。
それでも継げるのは一人だけなの。
それを嫌われ者の娘だった私が継ぐんだよ。
大学だって行かせてもらえる。
いまどきは学も必要なんだって、一也のおじさんのことだよ絶対。
私はもう忌み子じゃないんだよ。
ううん、むしろ居なくちゃならない子」

誇らしげに話す遙。
けれど、その声は何か追い詰められているかのような必死さで。

「だって私だけだもんね。
おばあ様から茶道と華道を教わった。
おばあ様の舞を踊れるのも、子供たちの中じゃ私だけ。
郷の人達のことも誰よりも知ってる。
汀さんにだってもう負けちゃいないんだ」

 汀、祖母の長男の一人娘で長男亡き後は次男の家に預けられている。
その出生だけで何をせずとも愛され続けてきた汀と、
逆に何もしていないのに忌まれてきた遙。
汀に何の落ち度が無くとも、遙にとってはそれだけで……

「お前……
憎かったのか?」
「憎い?」
俺の疑問に純粋な子供の顔で首をかしげる。
「何も憎くはないわよ。
何をされても、何を言われても周りの人全てを好きになればいいんでしょ!
そして他の人を好きになろうとすればするほど私を好きでいてくれた人は消えていく。
そうだよね。
私のこと大事にしてくれた人の恩は忘れてどうでも良い人のことも好きになろうとしてるんだから。
呆れていなくなっても当然だよね」
「そんなわけ……」

瞬間、遙がキッと睨みつけてくる。

「一也君だってそうだ。
小さい頃は良かったのに。
まわりがどんなに酷くっても、一也君だけは特別でいてくれた。
いじめから守ってくれて、一人にならないようにしてくれて、言うこともなんだって聞いてくれてた。
それが、私がまわりを好きになろうとしていくに従って。
ただの知り合いの関係を強いたり犯そうとしたり。
大学に行くとか言って村を出てって、仕舞いには彼女まで!
『あの時』に受け入れてれば良かったの?」
「違う……
『あの時』、俺も遙の特別ではなくなって気が立ってたんだ。
遙の態度は、正解だったよ」
もう遙の顔は見れなかった。
「一也君を特別視しなくなった?
それは、そうよ!
だって一也君が……」
そう、俺が遙に邪険にしたからで。
遙はそれを察しただけで。
けれど遙は先を続ける代わりに急にぽんっと手を叩いた。

「あ、そうか。あれから10年近く経つんだもんね。
もう覚えてない?」

10年? 俺が小学高学年の頃?
遙が中学に上がった4年前ではなくて?

あの頃は俺年表的にはまだ良いやつだったと思うんだがな。
そんな俺の怪訝そうな態度には気付かず遙は続ける。
「一也君が言ったんだよ。
好きになれって。
まず自分が好きになれば相手も好きになってくれるって。
好きになったふりでも良いからって」

まさか小さいころの俺の台詞が……

「本当だったね。
それだけでどんなに近づこうとしてもダメたった人達が今度は自分から寄ってきてくれた」
ただ、代わりに大事な人が去っていったけど」

ここまで遙に影を落としていたなんて。

「好きになったんだよ。
全員をね!
いじめた人もおばあ様も影で助けてくれた人も会ったばかりの人もみんなみんな。
そんな中で一也だけは特別だったのに……」

 嘘をつけない遙。
ただ『好きになったふり』ではすまない。
『好きなんだ』と思い込ませるのだ、自分に。
幼かった身で、いじめられ、蔑まれながら。
そして結果、他人を自分が本当にどう思っているのかを分からなくなってしまっている。
特別な人として俺を想うというのがどういうことかも……
誰にでも明るい?
当たり前じゃないか、本気で誰もかもを好きになろうと思い、好きなんだと思い込んでいたんだから。

  俺に彼女が出来た。
ぼうっとしていれば昔の特別な関係なんてただの幼馴染で片付けられてしまう。
遙にとっては特別という想いの持って行き場をなくす危機なのだ。
俺に抱かれることで特別な俺という幻想を持ち続けようにも俺が後ろ向きだ。
だから、遙は今度はその関係を忠実に再現しようとしている。
昔の関係に戻ろうとしているのだ。
昔に戻るのなら、話し方も子供の頃に戻さなくてはならない。
それで戻れるわけもないのに。
意識しているのかしていないのか……
俺が『あの時』そうだったようにあるのは『特別』という関係の揺らぎかけた相手を求める本能みたいなものだけで、意識などもうないのかもしれない。
なら、流された場合の結末もきっと同じ。
後味の悪い後悔だけがいつまでたっても残るのだ。
分かっていて流されるわけにはいかない。

「で、だ。
お前は何を望む?」
そこまで考えて俺は言葉を搾り出す。
きょとんとした顔をする遙。
「みんなを好きになって。
みんなからは好かれて。
それがぜぇんぶにせもんで。
俺に抱かれて。
その記憶だけを頼りに特別な俺というにせもんを作って。
それでお前は何を望む?」
何様のつもりだ、自分でもそう思う。
こうなるように仕向けて、襲って、最後には捨てて。
それでも安易な方へと流れるわけには行かなかった。

「勝手なこと言わないでよ!
誰がこうさせたと思ってるの?
それに、こうでもならなきゃ誰も私を認めてはくれなかったじゃない!」
ヒステリーを起こした子供の遙。
頭をなでてあやしてやると少し落ち着く。

逆に言えばこれはチャンスなのだ。
心を閉ざし、みんなが好きというそとづらで生きてきた遙の心の揺れている今が。
 閉ざしていたなどと気付かなかった。
 麻理という彼女を持った。
子供の頃、辛い現実に耐えさせるために閉ざさせた心を開く。
これは、最初で最後のチャンス。


「そうだな、あの頃は必要だったかもしれない。
でも必要だった、だ。
今はもういらないな」

ずっと脱ぎっぱなしになっていた浴衣をかける。

「そしたら、昔の私に戻っちゃうよ?
またみんなから嫌われちゃう。
私もまたみんなを憎んじゃう」

「本当にそう思うか?
なら、憎もうとしてみれば良い。
祖母を憎めるか?
母親を憎めるか?
友人達は?」


「出来るわけないよ!
みんな今は優しいし。
大事なんだから」

自身でもはやいつわる必要のないことを証明する。

「なら、変われるな。
お前が憎めないように周りももう遙を嫌いようがないんだ。
もちろん、変わりたくなければ変わる必要もない。
ただほんの少し正直になれば良い。
誰も彼も好きなんだという偽善から、
好きにならなくちゃという観念から。
どうせもう憎むことなんざ出来ない位の幸福を手に入れてるのだから」

「……」
返事は無い。
まだ。
けれどそれが無視によるのではなく思考によるのは分かっている。
なら、待つだけだ。

やがて……
「汀さんってね、小学校の頃の特別な人を今も待ち続けてるんだ。
そういうのって何か憧れるよね?」
その意味に気付いてぎょっとする。
が、俺の表情に気付いたのか確信犯なのか、次の瞬間遙はにやっと笑い、
「でも、私はそんなのいやなの。
ずっと会わずに遠くにいる汀さんの想い人と違って一也ってば近すぎるんだもん。
我慢し続けるには辛すぎよね。
それに、一也と私が上手くいこうと思ったらまず麻理さんってのと壊れてもらわないといけないってのも嫌よね」
「遙?」
「あ、でもこれは『あの時のこと』話したら速攻で片が付くのかな」
「はるか!」
慌てた俺にクスッと笑う。
「冗談だって。
それで麻理さんが許しちゃったらそれこそ私が惨めすぎだもん。
大丈夫、きっと私もきっかけが欲しかっただけ。
そのきっかけは」
そこで言葉を区切ると自分の胸を指差し、
「もうもらったから」

「本当に大丈夫か?」
その態度にもう問題ないとほっとしつつもしつこく念を押して確認する俺。
俺に恋人が出来ようがなんだろうが、遙が大事なやつであることに変わりはないんだ。
特別、否定はしたが今でもそれが遙を表すのに一番な言葉。

「うん、ほんとよ。
だから一也、今日はあっちで眠って」
そんな俺を安心させるようにうなずいて指さす先は窓際の広縁。
テーブルと椅子二つ、寝るためのものでは決してない。
ちょっと休憩という感じの椅子に寝心地は求めようもないが今日は仕方ないな。

 ・
 ・
 ・

 朝、伸びをすると全身がごきごき音を立てる。
椅子に眠っていたせいか体中が凝っているようだ。
椅子? そうか、そういえば昨日は椅子で寝たんだっけか。
確か遙と一泊を共にして……
部屋の方を見る。
二つ敷いてある布団。
どちらも人が入っているようには見えない。
一瞬焦るが目の前のテーブルの上に『朝風呂を頂いてます』の書き置き。
外は寒そうだがここは一応旅館の中、さすがに暖かい。
とはいえ手を少しでも壁に近づければそれだけで冷気を感じるし椅子の上はそも動きが取りにくい。
というわけで起きた俺はそのまま部屋に入ると布団に毛布の上から大の字になる。
暖かすぎるほどに暖かい部屋の中で冷たく感じる布団の上。
伸びをする度にごきごき音を立てる体が気持ち良い。

そんな感じで寝っ転がっているとドアの開く音がし、玄関の方でも靴を脱ぐような物音。
「良い湯だったかー、遙?」

「はるか?」

が、障子を開けて玄関から現れたのは疑問符をのっけた可愛い顔。
怒るようでもなく、それでも睨むように見つめてくるその猫のような瞳に見覚えは有りすぎるほど有る。
……名を、麻理という。

 半ば固まったままの俺。
何か言おうと口を開きかけたが。

 再び玄関の方でごそごそ音がして、今度こそ遙が現れる。
「誰よあなたは」
見知らぬ女性が部屋にいるのに気付いて遙は警戒した声を上げる。
だが、俺と麻理の様子を見ればそれ程考えることでもない。
「それはこちらの台詞。
私は一也の彼女よ、あなたは?」
自己紹介しつつも名前は名乗ってない所がどうしようもなく麻理だった。
「山和遙、一也の幼馴染。
あなたこそどうやってここに来たの!」
先ほどから確かにそれは不思議に思っていた。が、
「端末交換」
その一言で疑問は氷解する。
端末交換、名前の由来は知らないが現在のGPS情報など一部のプライバシー情報を端末同士で共有しあう機能。
プライバシーの共有だけあって恋人同士が使うことも多いが、本来は子供や老人とその保護者のためのものだ。
そういえば麻理に強引に設定された記憶はある。
まあ、告白した次の日に実家でもないこんな山奥に来て泊まっていたとなれば何か不審に感じるものだろう。
だからと言っていきなり現地に押しかけるのはやはり麻理らしい……

 麻理は舐めるように遙を見つめてから俺の方を見た。
『説明しなさい』そういう感じだ。
だが、それを無視されたと取った遙が噛み付く。
「何よ恋人って?
あたしだって恋人以上に仲が良いわよ。
さ、昨夜だって強引にガオーッてされたんだから!」
こらこら、邪魔はしないんじゃなかったけか。
が、そんな遙の嘘に麻理は「そう」と答えるだけ。
まったく気にして居なさそうな態度に遙は余計に苛々した表情をするが……
ちなみに俺の方を見てる麻理の目はちっとも笑っちゃいない。

 神保の駅員の言葉が頭の中を駆け巡る。
修羅場? うん、思ってた以上に。

「この子が遙ちゃん?
想像していたのと違うじゃない」
騒ぐ遙を面白そうに見ていた麻理が呟く。
「聞いていたのより全然良い感じ。
でも、ちょっともろそう?」
確かに。
昨日までの思い込んでいた遙と違って今の遙は演じているだけ。
変わっても変わらない自分を。
そりゃもろい。
けれど、変わりたいなら耐えなくちゃな。
きっかけくらいにはなれたと思う。
それにしても麻理。
初めて会った遙を見てそれを見抜く君って何さ。
「一也、あなたこの子の殻を」
ほら、多分俺が昨日遙をどうしたのか見抜いてるもん。

 一つ考えていることがある。
遙のために、力になってあげたい。
ただ、それをいうのは浮気宣言に等しい気もして気が引ける。
こんな人が俺の彼女なんてやっぱりもったいないとも思う、絶対に離すべきじゃないよな。
それでも、遙にはまだまだ大きな借りがある。
やはり、告げるべきなんだ。

「確かに、昨日強引にってのは遙の嘘さ。
昨日は二人で酒飲んで別々に寝た、何もしちゃいない。
けど、遙には昔それ以上に最低のことをしちまったことがあるんだ。
嫌がってるのに無理矢理、最後まで、むしろ強姦だ。
それを無かったことにしてくれてる、し続けてくれた。
勝手な言い草だけどそんな遙に俺は少しでも恩を」
遙と恋愛をすることはないだろう。
『あの台風の日』にそれは確定したのだ。
それが変わることはない。

 けど。

それでも遙を放っておくのはやはり無理だ。
せめて元気になった、回復した、と思えるまでは。
そして、麻理が俺のことを分かるように俺だって麻理のことは分かる。
断らないだろうって知ってて最低なことを提案してる。
分かってるさ。

 俺の考えている通り、麻理は必死な俺の想いに耳を傾け、遙は……
「ちょっと待ってよ!」
いきなり待ったを掛けてくる。
「最後までってどういうこと最後までって?
いくら私だってそこまでされてたらあんな簡単になかったことになんて出来ないんだから。
理性失ってたみたいだけど記憶まで歪曲させないでよね!
いい。
私はまだまだ立派な処女なの!」
大声で処女を強調する遙。
「でもあの時……」
「あの時なに?」
怒ったように言葉を返してきた遙にその時に聞いた大丈夫という言葉から感じたことを伝える。
「あ・の・ね・え。
帰りのことまでは良く覚えてないけど、私は大丈夫って言ったんでしょ?
それにあんなことされた直後じゃ普通はそういう表情してるんじゃない。
中一の頃は何されたらピンチなのかもあまり分かってなかったし」
そうか?そういうものなのか?
年の差を考えればその頃の遙なんてそんなもんだったのかもしれない。
そんな遙に無理矢理…… 結果はどうあれやはり最低だ。
でも、
「良かっ……」
極まった俺の台詞は言葉にならない。
遙が訴えない以上罪にはならない。
だからこそ俺にとって未遂ですんだかどうかには大した意味がない。
それでも、何よりも遙のために大きな安堵の息をつく。

 しばらく横でそのやり取りを聞いていた麻理はくすくす笑っていた。
「しょうがないわね」
麻理はそこで一旦間をおくと続ける。
「大丈夫よ私なら、自信あるから。
一也、信頼していいんでしょ?」
俺にとってはきつく大変過ぎる未来を提供してくれる……
俺の麻理、可愛い麻理。 平気そうな顔をさせてる俺は大悪人だ。
まだ理解できていない遙に向かって麻理が笑いかける。
「たまになら貸してあげるって、一也でいいなら」
一瞬不思議そうな顔をした遙も次の瞬間には意味を理解する。
そして遙も麻理に笑い返す。
「ご厚意はありがとうございます。
でも、要らないんです。
まずはこいつとあなたを恨んで嫌いになってみようかなあと思ってるとこですから」
俺を指差すと遙はそういって笑った。
口調が目上に対するものへ変わっている。
敵意を示す必要はなくなったのだ。
みんなを好きというのから変わるためにまずは俺を嫌いになる?
馬鹿、無理に決まってるじゃないか。
そんなことする必要ないって言ってるのに。

 だけど、何度も見てきた遙の笑い。
それは今まで一度でもここまで輝いていただろうか?

あの一言が遙をここまで押し上げたのだったら後悔はしていない。
けれど、その輝きを押し込めていた自分の一言の重さを改めてかみ締めると共にその輝きを手放すことを少しだけもったいなく思い。
瞬間、麻理につねられた。
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