祭りのような歓迎式典が終わると、普通の日
常がやってきた。 燕からは気をつけろと言われていたがやはり鎮鋼府の最高責任者である季将軍は僕のことを余り気に入っていないようで、鎮鋼府に慣れて知識を身につけるため とか言われここ一週間ほど古い書類の整理なんていう役職から考えると信じられない仕事をやらされている。 法術師を従えた一甲出の副将軍も実務という現実に戻れば邪魔者扱い…… 鎮鋼府に慣れろと言っても、書類の整理で何を慣れろって言うんだ? でも、これが実は役に立った。 北方からの敵との最前線であり、かつ防壁でもある『長城』とのやり取り、西域への央路の入り口でもある関所、及び央路のある国々や央路のオアシスなどとの やり取り、会計報告など、文書の中とはいえここには鎮鋼の現実が詰まっていた。 僕に興味の無い李将軍は僕が書類に埋もれている間は僕など居ないものとして扱ってくれるおかげで、この一週間で鎮鋼に関してはかなりの知識を仕入れること が出来た。 特に、人に聞いても分かりにくい現場と数字の感覚が多少なりとも掴めるようになったのは大きい。 「よ、坊や。 またこんなとこに引きこもって書類と格闘かい?」 今日も朝から書類に埋もれていると燕がやってきた。 「燕こそもう辞めたのに引き継ぎの仕事なんだろう。 大変だね。 それにしても何で辞めたのさ?」 「嫌な上司の下で働かなきゃならんほど燕家は困ってねえからな。 それに、坊やが今の職に就くには俺がいちゃダメだろ。 坊やのためを思って俺は泣く泣く職を捨てたんだよ。 そもそも俺の引き継ぎといや、後任である坊やに色々教えてやることだと思ってたのだがな」 そう、燕は僕以外の様々な部署からお呼びがかかっていて帰って以来休む間もなく飛び回っている。 いきなり辞めて京に行ってしまったために分からなくなっていたことがたくさんあったらしい。 それを隣で見て回ることこそ副官として慣れるにはもってこいだと思うんだけどな…… 僕は今日も今日とて書類の整理。 「嫌な上司って…… 燕がそんなことばかり言ってるから燕の仲間だと思われてる僕まで李将軍に睨まれちゃうんじゃないか」 文句を言うとお手上げのポーズで頭を振りながらため息をつく。 「ふぅ、自分が嫌われるのまで人のせいかい。 それじゃ俺が居なかったらここの連中が優しくしてくれるみてえじゃねえか。 せめて自分から何か動いてからそういったことは言ってくれよな。 あぁ、それにしても同じ釜の飯を食らう仲間にして上司に当たるやつがこんなみみっちい考えをしてるなんて。 李全昌の野郎なんてまだはるかにましだったのか。 その上せっかく李全昌のやつから逃げたと思ったのに相変わらず戻ってきちまったしよ、俺はなんて不幸なんだ」 勝手に嘆いている。 話はずれるけれど、ここで現在の僕たちの状況を少し。 僕の住居である副将官邸は帝国からの貸与物で質はまあ問わないこととして広さだけは僕が京に居た頃の屋敷と大して変わりない。 一家と充分な数の使用人が住めるだけのお屋敷と離れ。 ちょっとした厩舎、兵舎まである。 鎮鋼に初めて着いた日に燕に連れられて行くと、まだ40に入る前だろうかという品の良さそうなご婦人が出てきて僕たちを中に招き入れてくれた。 どうやら、燕の奥さんらしい。 『らしい』というのは想像していたどれよりも優しそうな顔をしていたから。 余りにも燕とは正反対なのでその時燕に 『こいつが俺の女房だよ』 と紹介されても僕もリィナもまったく信じられなかったのだ。 まあ、この前の人買いから聞いた話通りなら燕家に嫁いだのは政略結婚なのだから二人の意思も相性も関係はないのかな。 そう思って納得しようとした。 けれど、一週間一緒にいて分かったのは二人が互いを常に気に掛けていること。 お互いが気持ちよく居られるためのさりげない気配りがいたるところに感じられる。 燕にはもったいないと思うし、一緒に並ぶと違和感たっぷりだけれど、お互いを大切に思っているであろうことに間違いはなかった。 結局、僕が何も言う前から副将官邸には燕夫婦も住み込むことになっていた。 燕婦人は僕たちの世話や屋敷の管理をきっちりしてくれて、細かいところまで行き届くその手腕はとても西安の大貴族燕家の出とは思えないほど。 そう言う貴族離れしたところだけは燕に似ているかな。 ついでに、ちゃっかりというかあまりにも当然という感じでリィナも一緒に住むことになった。 燕の連れて来た200人の私兵は、西安大公家の160騎は大公家鎮鋼別邸にある宿舎に移り、残りの燕家40騎余りがここの兵舎の方に住んでいる。 僕も含めたこの4人と兵40人、そして馬40匹が今の副将官邸の住人だ。 僕達の方は燕夫人が世話をしてくれるから使用人の必要はないし、私兵の皆さんも燕夫人がご飯くらいは用意するというのをさすがに主家の婦人に作らせるわけ にはいかないと思ったのか丁重 に断って自分たちでどうにかやってくれているようで今のところ他に人を雇わずとも済みそうである。 さて、僕がそんな台所勘定をしていると燕は一通り嘆き終えたようでここにきた要件を告げる。 「坊やは劉渕って商人を覚えてるか?」 「さあ、名前までは。 でも、僕と燕の知ってる商人と言えば一人しか居ないじゃない。 リィナを開放してくれた人でしょ。 その人がどうかしたの?」 「そう、あいつだ。 あいつは鎮鋼を拠点とする西安管轄区有数の大商人だ。 人売りなんて手がけちゃいないはずだから、嬢ちゃんのことはきっと隊商の奴らとの交易のついでだったんだろうな。 劉渕本人はまだ京まで行ってて帰って来ちゃいないようだが…… 気をつけな坊や。 周りを探られてるぜ」 他の軍都指揮使とかなら分かるけど商人となるとこれまで気にしたこともなかったのでつい抜けた声を出してしまった。 「へ…… なんで?」 「お前さんの実力を勘違いしたんだろうな。 皇帝陛下の知り合いなら今の内にお近づきになっておくにこしたことは無い。 昨日の昼間に屋敷方まで挨拶の名目で探りを入れて来たらしい。 御用商人が就任祝いに来るという程度ならおかしくもないんだが世間話というにはちょっとな。 女房の感触じゃやっこさん、娘とお前を結婚させようとしてるようだぜ。 都合よくやつにゃ坊やより二つ年上の娘さんで大事にしていたら行かせそびれちまったってのが一人居るからな。 まったく、探りを入れにきて逆に用件がばれちまう間者なんざ使えないにも程がある」 燕はそんなこと言ってるけれど、実際のところは燕夫人がすごいだけ。 いつも穏やかに笑っているあの人に掛かればきっと大抵の人は気づかないうちに大事な秘密を全てばらしてしまうんじゃないかな。 さすがは燕の奥さんやってるだけのことはある。 それにしても、 「また結婚話? リィナだけでも困ってるっていうのに。 これじゃ京に居ても鎮鋼に居ても大して変わらないじゃないか」 「ハハハ、その年で独身なんぞやってりゃしゃあねえさ。 誰も結婚話を持ってきてくれなくなってからじゃもう手遅れなんだぜ。 ま、俺なら嬢ちゃんを押すね。 この前も傑作だったからな。 嬢ちゃんのやつ、坊やが俺と話してる隙に坊やの部屋に忍び込んで布団に隠れてたは良いが結局待ちきれなくて寝ちまって」 一から話してくれなくても分かる。 何せその時その場に居たのは僕なんだから。 「坊やも何も可愛い女の子が自分の布団の中に居たくらいで叫ばなくても良いだろうに」 そう、そんなこともあった。 けど灯火を消して布団に手を掛けたところで柔らかくて暖かいものがあったら誰だってびっくりすると思う。 燕からは爆笑され、燕夫人は若いって良いわねえと無責任に盛り上げてくれた。 リィナはといえば寝ぼけていたのか容赦なしの掌底を僕に叩き込んでからおとなしく帰っていった。 「常識無さ過ぎるんだよ。 僕は悪くない。 まったく、両親はどういう教育をしてたんだろう。 連合と帝国じゃ習慣が違うのかな」 「習慣の違いまでは知らねえが両親の教育方針はきっと『決して諦めるな』だろうぜ。 いや、あそこまで行くと家訓かもな」 一人で央路を渡ってくる。 想像を絶する過酷な体験、それに挫けないだけの信念。 そんなリィナが諦めずに迫ってくるっていうの? 「はた迷惑な…… でも彼女を見てるとそんな気がしてくるよ」 迫られるのは困るし、その行動力を迷惑とすら思う。 けれどそれでいて嫌と思っていないのも事実だった。 「ところで、そろそろ話を戻しても良いか」 おのろけも良いけど勤務時間外でやってくれよなとか言ってくるけど、 「話を逸らしたのは燕が先じゃないか! とにかくあの商人は僕が陛下に近しい人間だと思って婚姻関係を結ぼうとしてるんだよね。 僕が陛下と? 勘違いも良いとこだよ」 親密どころか個人的にお目見えしたことすらない。 群臣の並ぶ儀礼的な場で数度会ったことがあるだけなんだから。 「坊やはどうしたいと思ってるんだ?」 「別に、放っておけば良いじゃない。 彼らは調べれば調べるほど僕に幻滅していくよきっと。 もしも幻滅しなくて、そして結婚ではなくまずはお付き合いから始めたいとか言い出すような相手だったらまたその時に考えればいいんだ。 僕だって結婚したくないってわけじゃないんだ。 そりゃリィナみたいなのも困ったもんだけど、地位にそれほど重きを置かずに自分の意思で相手を選ぶような相手なら考えてみてもいいかなとは思ってるんだ よ。 まあ、そんな僕の理想とする形式を理解してくれる相手すらいまだにいないのだけどね」 逆に言うと、リィナは僕の想定する『相手』に一応該当してはいるのだ。 「ほう、坊やもただの結婚嫌いじゃあなくて考えちゃいるんだな。 わかった、女房にそう伝えとこう。 さて、俺はこれで帰るが坊やはどうするんだ。 どうせ今日も賈に稽古をつけてもらうんだろ」 「うん、これが終わったら帰るよ」 勤務時間というのは決まっているらしいが、もう辞めてる燕にはあまり関係ない。 僕だって将軍からある程度自由にしていいとは言われている。 だからといって適当に切り上げるわけにも行かないのがお役所づとめ…… 「そうか、んじゃ頑張りな。 俺は一足先に帰ってるぜ」 実は今僕は賈に騎馬対騎馬の稽古をつけてもらっている。 燕でも良いんだけど、手加減をしてくれない燕だと逆に何をしてもだめな気がしちゃって。 自信も戦意もなくしちゃうんだよね…… 毎晩部下と酒とを持って僕の屋敷に来てくれる賈に試しにお願いしたらこれが結構よい相手だったんだ。 さすがは軍都指揮使だけあって強いし何より教えるのが上手い。 稽古内容は2つ。 槍を用いた普通の騎馬戦と、僕の得意とする短剣を用いた対騎馬奇襲戦術。 奇襲といっても相手の思いもかけない攻撃を繰り出すことであって隠れての一撃必殺とかは遠くならともかく近くにおいては身を隠す場所も無い砂漠、低草地帯 での戦闘には向かない。 はっきり言って槍では賈に全く敵わない。 部下の人達が相手でも負けてしまう。 槍は使い始めてから一週間なんだ、それは仕方ない。 短剣を使えば戦えるが、それでも短剣では実際の中規模以上の戦争ではどうしても苦しくなるからやはり槍は覚えておかざるを得ない。 といって槍を持ちながら短剣を使うってのも苦しいものがある。 使い分けるというより、短剣を使うのは槍が使えなくなった時だけになるだろう。 歩兵として短剣を使う、というのは無謀だ。 それは鎮鋼府に歩兵は少なく、それすら弓弩兵と工兵主体で構成されていることからもわかる。 本当なら弓兵全員馬に乗せたいのだが、帝国には馬が足りない。 鎮鋼にはその貴重な馬が2万以上も居る。 それでも敵対勢力はほとんどが生まれながらの騎兵である騎馬民族なのだから馬の数も兵の訓練量も足りないくらいというのが実情らしい。 実際、書類を見ている限り戦術も何も無いに等しい小競り合い程度の戦いでは兵数が敵1に対してこちらが1.3居る位がちょうど勝敗の境目、同規模の軍では 敵の方が強いのだ。 で、帝国のやったことといえばこんな西の果ての鎮鋼に大規模な府を置くことで数で敵に対処すること。 敵は一部族どんなに頑張っても数千、それが3つ4つ程度までならば同時に攻めてこられてもまあ互角程度にはやりあえるという計算。 他にも大昔の長城を再建させることで守備力の強化を図り、のろしシステムの採用は長城の見張り間での伝達能力をはるかに迅速にした。 とはいえ、帝国がこの西域を維持できている一番の理由は羅針盤、印刷術と共に帝国3大発明と呼ばれる『火薬』の武器火球だろう。 工兵と呼ばれる特殊兵が扱うこの武器はまあ、言うなれば強力な弓矢、だろうか。 ついでに、特殊兵とはどの一軍にも配置されているもので工作兵、衛生兵、伝達兵、補給兵などで構成されている。 他に第4歩兵軍には長距離を飛ばす火神砲や地面に埋めるタイプの伏雷などを扱う部隊までおり、鎮鋼府で一番恐れられているのは実は騎兵などではなく第4歩 兵団ではないかということすら囁かれている。 さらに鎮鋼には破壊力抜群の天雷砲まである。 他の火薬武器が音で相手の馬を驚かせたりで威力以上の効果を挙げるとはいえ、同時に複数を倒すほどの殺傷力は持たないのに対して天雷砲は巨大な投石器で火 薬を詰めた球を飛ばすことで敵の一団を壊滅でき、 攻城戦では薄い城壁なら一発で突き破る。 問題は一度使った相手にはばれてしまっていて二度目には簡単に避けられてしまうこと。 攻城戦で威力を発揮するとは言っても、守る府である鎮鋼から長城を越えて相手方の砦を攻めるということはあまりない。 そもそも、鎮鋼の主な相手は堅遼や盛果のような国家ではなく西方の伝統的な騎馬民族であり、彼等はパオというテントで移動しているから守るべき砦という概 念自体がないのだけどね。 まあ、破壊目標まで持っていくだけでも大変なこの武器に今の鎮鋼で出番があるとしたら朝貢国であるオアシス各国を攻める事態になるか、この鎮鋼まで敵 の大軍が来て鎮鋼攻防戦となった時くらいかもしれない。 そこまでいったら遅かれ早かれ鎮鋼も終わりだろうけど。 とまあ、馬をもひるませる火薬と貴重な馬そして大量の兵士などに支えられて鎮鋼府は府としての機能を維持している。 ここら辺の基礎的な構造は書類を見て実感できたのだから書類に埋もれていた甲斐も多少はあったというもの。 その実感が槍を早く使えるようにならなくてはという意欲にも繋がる。 でもそれももう一週間、そろそろ別のことを覚えてもいいはずだった。 お茶を飲んで一息つくと僕も帰る支度をする。 後は将軍に会って帰る許可をもらうだけ。 挨拶をしてそれで終わり、引き留められることはないだろう。 そう思って李将軍の執務室まで行くと今日は少し違った。 「おや紅狼殿か。 どうだ、そろそろこの鎮鋼にも馴染んできたか?」 ほとんど書類の山の中で過ごしているというのに馴染むも何もない。 なんてことを面と向かって言うわけにもいかないので。 「はい、将軍のおかげでだいぶなれて来ました。 後は少しずつでも様々な仕事を学んで将軍のお役に立ちたいと思います」 そろそろ仕事をしないと本当に居なくても良い存在にされてしまう。 いつまでも書類の山に埋もれているわけにはいかないのだ。 「そうか、それでは貴殿にやってもらいたい仕事がある。 央路にあるオアシス国への挨拶だ。 とはいえ視察もある程度は絡んでくるが。 なに、今回行ってもらうのは央路と行っても第9区、帝国の勢力下にある地だ。 難しいことは使節の中にそれ専門のものを入れておく。 構えてもらうことは無い。 とにかく紅狼殿にはこの西域という地に慣れてもらわねばならんからな。 観光とでも思いゆっくり行ってきてくれ。 出発は一月後になる。 使節団の詳細は明日にでも知らせることにしよう」 「はい、了解しました」 そしていつもどおりの挨拶を済ませて執務室を後にしたが喜んでいるのが李将軍にもばれていたかもしれない。 何せやっと初仕事なのだ。 しかもいきなり央路近辺の国や町の視察。 帰って燕や賈にも話して喜びを分かち合おうと思ったら。 「妙だな」 「ええ、妙ですね。 あの李将軍が視察を他人に譲るなんて」 燕も賈も思いっきり怪しんでいた。 「え?」 「もともとその仕事はお前さんみたいな階級だけ高くて実務能力のないやつとかで十分なんだが、実は挨拶中はずっと仕事がサボれる上に廻った先々でご馳走 攻め、みたいな感じでな。 かなりおいしい仕事なもんだから俺も行きてえんだが、奴さんめがいつも自分で行きやがるんだ」 話しぶりからすると本当に簡単な仕事なのだろう。 「ですが。 今回紅殿は来たばかりですし、燕殿も辞めてしまわれるしで将軍が抜けた時に穴を埋められる適役も居ないですから、しょうがなかったのかもしれませんね。 これまでは留守の間に代理を務める燕殿がいればこそ将軍も安心して行けたのでしょうし。 さ、そんなつまらないことを考えるのはやめて今日もちゃっちゃと訓練を終わらせて早く食事にしましょう。 今夜は紅殿の初仕事決定祝いです。 あぁ、燕殿の奥方が綺麗なだけでなくあんなに料理が上手だなんて。 知っていれば紅殿が来る前も敵対なんてしなかったのに。 戦いの勝敗は全て食べているもので決まるのです」 賈は僕が鎮鋼に来た初日に訪ねてきて燕婦人に会って以来この調子、あの居丈高な賈をついこの前見ただけに少し不気味である。 本人曰く、『苦手が二人もつるんでたら敵対するより仲間になった方が楽でしょう』ということらしいけれど、それって僕を立ててくれては居るけれども要 は燕とリィナが怖いってことだよね。 どんな理由であれ仲間が増えるのうれしい一方で、燕はともかくリィナにまで負けてるってのはちょっと複雑な気分でもある。 |
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